| 田山花袋 『温泉めぐり』 |
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大正７年１２月２０日初版 |
| 「湘南の春」 緑の濃（こま）やかな海の潮（うしお）の香のやはらかな、殊に野椿の紅い花と、汽車の沿線に咲いた桃の花が美しかつた。春雨のしとしとと降る中に、汽車の通るのを待つて、紺蛇（こんじゃ）の目の傘を傾けて踏切のところに立つてゐる女の姿も美しかつた。 もうその時分には、箱根、足柄の連山にも雪はなく、一時は白壁を塗つたやうに白く鮮かに見えた富士の雪も、いつか霞の薄い衣につゝまれて、朝日に匂つて、さながら茜色になつて眺められた。國府津の蜜柑の山畠の其処此処に細かに入込んで穿（うが）たれてあるさまも繪（え）のやうであつた。そしてこの春の光の漲（みなぎ）つた海岸を、昔の五十三次の古驛が縫つた。 |