| 菊池寛 「真珠夫人」 |
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前編 大正 ９年 東京日日新聞連載 |
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汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなって行く焦燥しさで、 満たされていた。国府津までの、まだ五つも六つもある駅ごとに、汽車が小刻みに、 停車せねばならぬことが、彼の心持をかなり、いら立たせているのであった。 彼は一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えている彼女を、 思うさま、いたわってやりたかった。 時は六月の初めであった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や 森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に 迫って来ていた。ただ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした 緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。 |