正宗白鳥「人を殺したが　」

正宗白鳥　「人を殺したが…」　

大正１４年　週刊朝日連載

（中略）保は其処を離れて間もなく汽車が国府津に着いたのを幸ひに、平然として外へ出た。最早（もはや）夜が遅くつて上り列車はなかつたので、駅前の旅館に泊ることにしたが、彼れはあたりの人目も恐れることもなく、たゞ激しい心身の疲労を感じて、寝床へ入ると死人のやうになつて眠つた。

　翌朝、昏睡から醒めて廊下へ出て、涼しい汐風に吹かれて、大海を見渡してゐると、東京の自分の居室などは掃溜の箱のやうに思はれた。何年目かに汚れた都会を離れて、清浄な世界に身を置いた彼れは、どちらかが夢であるやうな気がした。

　しかし、昨夕（ゆうべ）の所行は夢ではないのだ。旅館の柔かい寝床に横はつてゐた間に見た夢ではないのだ。（中略）勇ましい大海の波濤や赫（かがや）く夏の光の中に自分といふにんげんが活々と生きてゐるやうであつた。

　宿の前の砂の上を少しの間歩いた後で、不断よりも多量に且つ味ひよく朝餐（あさげ）を食べた保は、直に帰京する筈（はず）の予定を変じて昼の間だは箱根で遊んで、日暮れ頃になつてから帰京の途についた。浜辺の砂の上ででも、山間の緑樹の下ででも、彼れは、自分の精神がこの頃になく冴冴してゐるのを覚えた。