山本有三「波」

　昭和３年　東京朝日新聞　大阪朝日新聞連載

「横濱から立つの。」

「いや、特急に乗るといつてゐたから、神戸から立つだらう。――待て。さうだ。いゝ方法がある。明日國府津まで行けば、ちよつとぐらゐは會ふことが出来るだらう。小母さんも非常におまへに會ひたがつてゐたから、さうだ、さういふことにしよう。」

　行介は手紙のことについては、わざとその晩何にもいはなかつた。昂子に會はせる前には、駿を叱ることは控へた方がいゝと彼は思った。

　翌日彼等は國府津のステーションに行つて、下りの着くプラットホームで特急の来るのを待つてゐた。

　一、二等の特急列車は定刻より一分も遅れずに、構内にはひつて来た。食堂車を中央にして前が二等、うしろが一等だつた。行介は急いで二等車の車輛を一つ一つ覘いて歩いたけれども、昂子の姿は見當らなかつた。彼はいらいらして列車の中にはひつて、各室を丁寧に見渡したが、やはり彼女は見えなかつた。乗遅れたのかしら、それとも外の列車に變へたのかしら。彼はがつかりしてホームにおりると、遙うしろの一等車の窓から半身を乗出してハンケチを振つてゐる婦人があつた。彼はわけもなくその方へ驅けて行つた。昂子だつた。
　